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このような事情と幕府政治が安定し、庶民の生活も向上する事で絹の織物に対する需要も増えたことと相まって、城端での絹織物も急速に発展した。加賀藩も絹織物に課税し藩の財政を潤す事が可能となり、加賀藩の特産品として領外への販売が奨励された。元禄年間城端絹織物は隆盛となったが、その後幕府の奢侈禁止政策などで、各地の絹織物産地は極度の不況となった。政策的な不況や景気変動による不況で絹織物の販売が不振の時などには、加賀藩は絹織物で成り立つ城端に貸し米、貸し銀などの金融政策を施した。あるいは天候不順で繭が不作となり生糸相場が高騰した時には、領国内で生産された生糸の領外への販売を禁ずるなどの政策を行い城端の絹織物の生産を擁護した。幕末の安政頃には生糸輸出量が増大し生糸価格が高騰したので、城端の絹織物業者が困窮し、加賀藩より「御仕入銀」と称した低利の資金融資が行われたとある。
城端で織られた絹の大部分は白生地のまま京都西陣に運ばれ、そこで精練染色の加工がなされ、加賀絹を扱う4件の問屋で独占的に販売されていた。主な市場が上方なのでその地の市況が直ちに城端の好不況に影響した。そのため新しい市場開拓の必要にせまられ、江戸市場を開拓する事となった。江戸では諸大名が自国の産物を売る事に力を入れそれぞれ産物会所などを設置していた。新しい市場の開拓に伴い加賀藩も資金的に援助し、城端の絹織物業者もこの流通経路を利用して文政12年(1829年)には江戸でも城端絹が販売される事となった。
先に述べたように加賀藩も絹織物にかけた税によって、城端織物が好調に販売されている時には藩の財政も潤う事となるので、このような様々な保護政策を執り城端の絹織物の発展に尽力してきた。それを礎として現在も城端は長繊維の織物産地として発展している。
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